Apr 29, 2018

180418 映画『デッドエンドの思い出』茶話会の思い出(2)

主演俳優、田中俊介

“名古屋で映画を作りたい”と木全純治さんに企画書を送ったイ・ウンギョンPD。映画『デッドエンドの思い出』クラウドファンディングのプロジェクト紹介文で、木全さんは“まいったなあ”と当時の心境を語っていますが、イ・ウンギョンPDによると... 「木全さんは以前から釜山国際映画祭に行きたいと思っていたので話に乗り気でした(笑) そして名古屋で多くの出資を集めるため、田中俊介さんの起用を提案してきました。“田中さんで1000万円集めてみせます”と意気込んでいました」。まだ監督も決まっていない段階だったが、撮影後のポストプロダクションの作業も考えると悠長には構えていられなかった。木全さんの提案について“選択肢がないかもしれない”と思ったそうです。


田中俊介 ©小学館

イ・ウンギョンPDは田中俊介さんに実際に会ってみることにしました。それが2017年11月。「たとえば小栗旬やオダギリジョーは韓国でも人気が高いですが、実力も魅力もあるのに韓国ではあまり人気の出ない日本の俳優さんもいます。田中さんに会ってみて、もしアイドル的な部分が鼻についたり、韓国人の好むタイプではなかったら、やはり断ろうと思っていました。韓国でも公開する作品ですからね。けれど実際に会ってみて、とても好感を持ちました。“田中さんでいこう”、そう決めました」。

静かに話を聞いていたチェ・ヒョニョン監督がぽつり。「私には選択権がありませんでした(笑)」。監督はその頃、イギリスに留学中。「じゃあ、ここからは監督の話を」とイ・ウンギョンPDがバトンを渡します。その前に木全さんが監督との縁について少し教えてくれました。「昔(=2010年)『あいち国際女性映画祭』に女性監督たちを招待して、期間中に短編映画を作ってもらったことがあったんですが、その時にウンギョンさんが連れて来た監督がチェ・ヒョニョンさんでした。でもウンギョンさんがこの『デッドエンドの思い出』の監督としてチェ・ヒョニョン監督を選んだのは後で知ったんですよ」。

 
 

監督、チェ・ヒョニョン

「ちょうど一時帰国していた時にウンギョンさんから数年ぶりに連絡をもらったんですよ。最後に会った時に“イギリスでの勉強が終わったら韓国に帰る”と話していたのを覚えていてくれて。それにしても私の番号をまだ持っていたとは」。そう笑いながら話すチェ・ヒョニョン監督。すると「今どうしてるのかは知らなかったし、番号が合ってるのかもわからなかったけど、とりあえずかけてみたら彼女が出たんですよ」と返す(?)イ・ウンギョンPD。


チェ・ヒョニョン監督 ©Daum

大学で日本文学を専攻されていた監督は「何より原作、そして作家が重い。怖かった」と、提案を受けた時の気持ちを正直に語ってくれました。「しかも2カ月後には撮影に入らなければいけないというので、これはヤバイ、危険だと思いましたね(笑)」。“時間がないから早く決めて”と言われて、電話を切るとすぐに本屋へ向かったそうです。「時間が惜しくて、彼氏と一緒にその場で読みました。私はもちろん気に入りましたが、女性が主人公の物語でもあり、男性である彼にも意見を聞いてみました。すると彼も"いい"と言ってくれて... それでウンギョンさんに“やります!契約します!”と連絡したんです」。それが2018年の1月中旬頃だったといいます。

一度イギリスに戻らなければならなかったため、ロケハンや脚本の手直しなど、撮影前の準備作業に取りかかることができたのは2月に入ってから。イ・ウンギョンPDもこの作品の“綱渡りぶり”を何度も強調されていました。「映画ってそんなに簡単に作れるものではないんですよ。今回は本当に時間的に厳しかった。完成した作品を見たら、きっと二人ともいろいろ反省することでしょう。でもそれも運命です。またそうやって作った映画だからこそ、成長もできただろうし、後で気付くことも多いんじゃないかと思います」「それにしても、たった2カ月の準備期間で長編デビュー作を撮らなければならない監督は、本当に大変だったろうと思いますね」。

 
 

主演女優、チェ・スヨン

続いてスヨンのキャスティングの経緯についてイ・ウンギョンPDから。「日本語ができる韓国の女優をすべて挙げてみました。たとえば『朴烈』で日本人役をやったチェ・ヒソ。その作品で昨年、主演女優賞をとり有名になりましたが、彼女は“映画の女優”だし、韓国のマーケットだけを考えた場合、いいかもしれないと思いました」「もちろん、スヨンさんも候補の一人でした。彼女は“ドラマの女優”でしたが、映画に出たがっているのは知っていました。『女性映画人の集まり』という会があるんですが、昔その年末パーティーに彼女が来て、"映画に出たいです!よろしくお願いします!"といろんな人にあいさつして回っていたことがありました。性格のいい子だなと思って見ていましたね。今回彼女にその話をしたところ、私と会っていたことは憶えていないようでしたが、“あの時はいろんな人にあいさつをしたのに、その後4年間、ひとつもオファーがなかった”と言っていました。でも本当にそれくらい韓国の映画女優は“役が少ない”んですよ、男優と違って。また彼女の場合はアイドルとして成功していたため、気軽に使うには逆にためらわれる部分もあったでしょう」。


チェ・スヨン

「スヨンさんもドラマには出演していましたが、映画は『純情漫画』(2008)という作品に少し出たことがあるだけでした。昨日の打ち上げの時に彼女自身もこう言っていました。“映画はほとんど初めてで、大きなスクリーンに自分が映ると思うと、今から超緊張します”。実際、映画とドラマはかなり違います。前にドラマで有名なある女優が映画に出演したので作品を見たんですが、テレビではよかったのに、大きなスクリーンで長時間見ていたら途中で飽きてしまいました。スクリーンを2時間掌握する力。存在感。映画俳優にはそれが求められます。映画とドラマの違いをわかっている俳優は、どちらかにしか出なくなる場合が多いですね」。

「映画会社というのはアイドルのキャスティングは基本的に避けるんですよ。そのつもりがなくてもアイドル映画っぽくなってしまう、作品に“ファンのための映画”というイメージがついてしまうので...」「今回は監督も私もアイドル映画を作りたいわけではありませんでした。フェミニストではないですが、女性による、女性のための作品を作りたかった。韓国にはそういう映画が非常に少ないのです」「そういう意味でスヨンさんは不安な候補ではあったんですね。正直かなり悩みました。けれど日本語ができるのは大きかったし、彼女が女優になりたい、映画に出たいと思っているのはわかってましたから...」「私はスヨンさんにしようと考えました。でも監督にはなかなか言えませんでしたね。“私にアイドル映画を撮れっていうんですか?”と怒られそうで(笑) 実は監督のほうから“スヨンさんはどうですか?”と提案してくれたんですよ」。

19日の茶話会に参加されたゆっこさん(@sposhung0210)からの情報
 
スヨンのキャスティングのポイントはやはり日本語力。撮影期間が限られていたため、日本語に不安がないのは大きかった。しかしほかのスケジュールもあり、撮影に入るまでの役作りにかけられる時間はあまりなかった。本人はかなり大変だったはず。
(PD&監督の推測として)オリジナル作品ではなく、原作が吉本ばななだったことが、スヨンがオファーを受けてくれた理由のひとつかもしれない。俳優にとって初主演作はやはり大事で、オリジナル作品を選ぶのはかなり勇気がいるだろう。
“アイドル主演”はアドバンテージにならず、むしろハンデになる。制作側にはいろいろ負担になる場合も。

 

“実は...”と、裏話を惜しげもなく語ってくれたイ・ウンギョンPD。「何しろ主演が決まらないと、撮影スケジュールが組めません。スヨンさんも田中さんも忙しい人ですから、いい返事をもらっても4月に撮影することができなければ、断って別の候補を探さなければいけませんでした。スヨンさんはちょうど『お膳立てする男』というドラマに出演中で、その撮影が終わるのが3月の中頃。“次は何か決まっていますか?”と聞いてみると、“決まっていない”という。ただパリに行く用事かあり、帰ってくるのが3月20日くらい。それ以降なら空いているということでした。本当は3月の初旬から撮り始める予定でしたが、彼女のスケジュールに合わせて撮影を4月に延期しました」「実はスヨンさんに企画書を送ったらすぐ電話がかかってきたんですよ(笑) 韓国では小さな作品だとオファーをしてもすぐには返事をもらえません。それで後日“どうですか?”とこちらから確認の電話を入れるのが普通なんです。私も彼女に企画書は送りましたが、一度名古屋に行き、これならクランクインできると確信した段階で、彼女の意思を尋ねるつもりでした。とりあえず一週間は様子を見ようと。それなのにすぐ連絡が来て“一度お会いしたい”という。普通なら“ありがとうございます!”となるところなんだけど、こちらの態勢が整っていなかったので、逆に“ちょっと待ってください。一度日本に行って状況を確認してきますので、戻ってからきちんとお話ししましょう”と(笑)」。

19日の茶話会に参加されたゆっこさん(@sposhung0210)からの情報
 
スヨンにオファーしたところ、“やりたい。けれど実際に監督に会って話を聞いてみなければ決められない”と話してくれた。いい現場がいい作品を作る。いい現場になりそうかどうか、自分で見極めたかったのかもしれない(監督談)。
スヨンは人を見る目、作品を見る目がある“プロ”だ(PD&監督談)

 

名古屋に飛んだイ・ウンギョンPD、出資の交渉、田中俊介さんの事務所との打ち合わせ、さらに撮影監督、助監督たちと撮影場所についての相談と、時間がないためすべてを同時進行でこなさければならなかったといいます。出資をお願いしていたテレビ局からは“スヨンさんに決まりましたか?”とせかされますが、“返事待ちです”と答えるしかなく... さて、そのテレビ局は結局出資してくれたのか? 公開されたらクレジットを確認してみましょう(笑)「韓国に戻ってスヨンさんに会ったら“やりたい”と言ってくれました。今回の作品はいろんな面で本当に大変でしたが、キャスティングだけはすんなり決まりましたね。田中さん側もすぐOKをくれましたし」と振り返ってくれました。

 
 

(3)へ続く予定です。

Apr 25, 2018

180418 映画『デッドエンドの思い出』茶話会の思い出(1)

はじめに

4月18日、映画『デッドエンドの思い出』クラウドファンディングの支援コースのひとつである『監督、プロデューサー2名との茶話会』に参加しました。場所が名古屋、しかも平日だったため、申し込むかどうか期限ぎりぎりまで悩みましたが、映画監督やプロデューサーと話ができる機会は滅多にないと自分に言い聞かせ、えいやっとポチりました。結論から言うと、参加して大正解でした。この内容を自分だけの胸の内にしまい込んでしまうのはあまりにももったいない。記録として残さなければ。そう思い、忘れないうちにと内容を書き出してみましたが、そのボリュームたるや。これをどうやってまとめればいいか、かなり悩みました。

この茶話会は計3回開催され、ほかの参加者の方が提供してくださった情報もかなりの分量がありました。テーマごとに分類してまとめようとしてみましたが、どうしても落ちてしまう部分が出てくる。かりに些末的なエピソードであっても、なるべく多く含めたい。結局、実際に自分が参加した回の内容を中心に、時系列に再構成することにしました。メインとなるであろう“語り”、特に口調が若干フィクションに近づいてしまうのは避けられない、けれどこれが一番“伝わる”のではないか、そう思いました。

なお、映画や業界に関してさほど知識もないので、知らずに不適切な用語を使ってしまっているところがあるかもしれません。人名や作品名などの固有名については、間違いがないよう可能な限り確認しました。また補完的に情報を挿入した部分もあれば、数字、特に金額などわざと省いたところもあります。

 
 

よろしくお願いします

集合場所は名古屋駅から少し離れたところにある某ビジネスホテルのロビー。到着すると日本側プロデューサー、木全純治(きまたじゅんじ)さんと、もう一人の参加者であるTさんがもういらっしゃっていました。TさんはBOYS AND MEN(ボイメン)の田中俊介君のファンの方でした。あいさつもそこそこに「さあ、行きましょう!」と楽し気にせかす木全さん。お会いするのは10日の「撮影見学」に続いて2度目です。先を歩かれながら「スタッフはみんなこのホテルに泊まっていたんですよ」と教えてくれました。“まさかスヨンも? このエコノミーなホテルに?”と思いましたが、いきなりそんな質問をするのも気が引け、ぐっとこらえました。

 
 

カフェ・エンドポイント

茶話会の開催場所である「カフェ・エンドポイント」は、ホテルのすぐそばにありました。ここが映画のメインの舞台だそうです。表通りからほんの少し入っただけなのに、カフェとその周辺は確かに「路地裏」でした。ちなみに『デッドエンドの思い出』の韓国語タイトルは『막다른 골목의 추억』(直訳すると「袋小路の追憶」)となります。「골목」=「路地」で、原作を読んでいないため終始理解の遅い私でしたが、なるほど~とようやくイメージがつかめてきました。前日に無事クランクアップを迎えて、すでに片づけられた物もあったかもしれませんが、少し寂しい雰囲気。お店の看板がなければ、そこがカフェだとは誰も思わないでしょう。


「カフェ・エンドポイント」看板 ©jiji3104

「2階をゲストハウスに、1階を喫茶店に改造しました。もう撤去しましたが、こっち(道の一方)をふさいで、行き止まりを作りました。そうです、まさにデッドエンドです。ここが私道だからできたんですね」と、中に入る前からいろいろ解説してくださる木全さん。記念写真の撮影ポイントまでその都度教えてくださる優しい方で、故若松孝二監督から可愛がられ映画館「シネマスコーレ」を任されたのもなんだかわかるような気がしました。

記念写真を撮り終えて建物の中に入ると、韓国側プロデューサーのイ・ウンギョンさん(ZOA FILMS代表)が朗らかな笑顔と声で「ようこそ、エンドポイントへ!」、続いてチェ・ヒョニョン監督が少し恥ずかしそうに「いらっしゃいませ~」と、我々を温かく迎えてくれました。イ・ウンギョンPDとは撮影見学の時に少しお話させてもらっていて日本語がお上手なのはわかっていましたが、チェ・ヒョニョン監督も流暢な日本語を話されるのでびっくり。後で伺ったところ、大学で日本語を専攻されていたそうです。

部屋に通されると、オブザーバー(?)としてチェ・ヒョニョン監督の彼氏さん、イ・ウンギョンPDのマネージャーさんもいらっしゃっていました。「この室内はまだ写真でも公開されてません。スヨンさんはここによく座っていたんですよ。あ、2階にはスヨンさん、ユミ(役名)の部屋がありますので、後で見に行きましょう」とイ・ウンギョンPD。さすがファンの喜ぶポイントもよくご存じでした(笑)


「カフェ・エンドポイント」1階 ©jiji3104


「カフェ・エンドポイント」1階 ©すてら☺︎ (@exapieco110)

とりあえず監督、日韓PD、Tさん、そして私の計5人で小さめのテーブルを囲むように着席。堰を切ったように語り始めるイ・ウンギョンPD。「ここは4、5年ずっと空き家で、美術監督のナガサワさんが持ち主からリフォームを頼まれていましたが、忙しくて後回しにしていたそうです。“カフェとなる場所を探している”と相談したところ、"ここはどうですか?"と紹介してくれました。空き家なら自由に使えるじゃないですか。これが実際のお店だと撮影できない日もあるだろうし、いろいろな制限が出てきます」。撮影期間が非常に短いため、時間を気にせずに撮れるのは大きなメリットだったとのこと。「ただ天井が少し低いのが難点でした。照明が難しくなるし、カメラのアングルも限定されてしまいます。上から撮るときれいなんですけどね。まあ、それでも限られた状況の中で、最善を尽くして撮影しました(笑)」。

 
 

プロデューサー、イ・ウンギョン

ここでようやく(?)ティータイム。冗談半分に“怖い方たちだったらどうしようと思っていた”と言うと、イ・ウンギョンPDが隣のチェ・ヒョニョン監督を見ながら「私が一番怖いです(笑)」。フォローするように木全さんがプロデューサーという職業について簡単に説明してくれました。「全体をまとめていかなければならない立場だから。予算や日数をオーバーしてはいけない、しかし監督の思いは可能な限り汲んであげたい。そういうジレンマがあるんですよ」。するとイ・ウンギョンPDも「そういう意味では、私は怖いプロデューサーではありません。監督の肩を持つほうだから。いい作品を作るためなら、製作費がオーバーしても... よくオーバーして、いつも家族からしかられます。私が借金して負担しなければならないから」。

 
 

原作との出会い

続いて原作との出会いについて、イ・ウンギョンPDが語ってくれました。「この吉本ばななさんの小説と出会ったのは、もう5年以上前です。日本の友人から“これで映画を作ってみないか”と勧められました。読んですぐに気に入り、まず友人の監督に読んでもらおうと、自分で韓国語に翻訳しました。その監督というのは『子猫をお願い』(2001)や、今度公開される中山美穂さんとキム・ジェウクが出演している『蝶の眠り』(2017、SIGLO, KING RECORDS, ZOA FILMS)を撮ったチョン・ジェウン監督なんですが、同い年の友人でもあるんです」「何人かに読んでもらいましたが、みな“短編なので長編として撮るのは難しいのではないか”と乗り気にはなってくれませんでした」「いったんは諦めましたが、頭の片隅でずっと気にかかっていました。映画化への思いを諦め切れず、長編にするのが難しいというのならほかの短編と合わせて、たとえば『ジョイ・ラック・クラブ』や『恋する惑星』のように、オムニバス風の映画として作るのはどうだろうと考え、企画書を作ってばななさんに送りました。ばななさんはかなり気に入ってくれたようでした。センスがいいと褒められましたよ(笑)」。もしその企画書通りに映画が作られていたら、きっとスヨンの起用はなかったでしょうね。小さな声で言いますが、ボツになってよかったです(笑)

 
 

映画化権

映画化のために何年も奔走したイ・ウンギョンPD。「世界的に有名な作家さんで映画化権も決して安くはないんですが、“非独占でかまわないから”と、頼んで相場よりも安く買わせてもらいました」「その時は韓国映画として作るつもりだったので、舞台は済州島に設定していました。脚本は完成まで時間をかけて何度も直しますが、その過程で舞台が変わってしまうこともよくあるんですよ。ちなみにその時はデッドエンド、人生の突き当りにぶつかった3人の女性が偶然済州島で会い、新たに人生を歩み始めるという話でしたね。とてもいい脚本でしたが、刺激的なストーリーではないため、韓国では製作資金が思うように集まりませんでした。そうこうするうちにすぐに2年経ってしまいました。映画化権の期限が2年だったんです。それでばななさんにそれまでの経緯を説明して、2年間延長させてもらいました。ばななさんも事情をよく理解してくださり、その時も安い金額で延長させてくれました」。吉本ばななさんの小説はほとんど読んだことがありませんが、イ・ウンギョンPDの語るエピソードがどれも素敵で、私も“ばななさん”ファンになってしまいそう。

19日の茶話会に参加されたゆっこさん(@sposhung0210)からの情報
 
・映画化に関して縛りのようなものはなかった。有名な作家の場合、原作に忠実でなければダメな場合が多いが、ばななさんは安いうえに"自由にしていい"と言うので驚いた。
・延長した権利が切れるのが2019年の1,2月頃。映画祭への出品なども考えると、遅くてもこの4月には撮影を行なう必要があった。
・低予算映画は商業的な成功が難しい。昨年韓国で一般公開された『ザ・テーブル』は低予算作品(4人の女優が一日ずつしか撮影がなかった)で成功したが、このような例は韓国では稀で、低予算で映画を作るのはギャンブルに近い。

 
 

名古屋を舞台に

決意を新たに、企画をほとんど一から練り直すことにしたイ・ウンギョンPD。「こうなると、もう後に引けません。プロデューサーとしてのプライドというわけではないけれど、4年もかけて何も結果を残せないというのは自分でも許せませんでした。出資が集まらなければ自分で借金して作れる規模にして、そうやってでも作り上げようと心に決めました」「ちょうど韓国で企画のコンペがあり、応募してみたところ、さいわい私の企画が選ばれ、製作に取りかかれる準備金を確保することができました。それで物語を少し小さく、短編集の中で一番気に入っていた『デッドエンドの思い出』を原作として作品を作ることにしたんです」「どこで撮影すればいいか、出資の募りやすさやマーケットのことなども考えながら、以前から日本ロケの作品を作りたかったこともあったんですが、思いついたのが名古屋です。名古屋には『あいち国際女性映画祭』がありますね。この作品も女性監督、女性の原作だから、縁がある気がしました。また少し寂しい感じがありつつ、温もりのある場所という物語の舞台のイメージにも合っているように思えました。何より名古屋には頼りになる木全さんがいました。また“お金がなくなったら食事の面倒くらいは見るよ”と言ってくれる友人も住んでいたので、リーズナブルに作れるんじゃないかって(笑)それで木全さんに“名古屋で映画を作りたい”と、企画書を送ってみました」。

 
 

(2)へ続きます。