Sep 26, 2009

[記事翻訳] 090926 クルボクチ論争? 太ももには罪がない - Mediaus

 

芸能人を人質にした欲望の疾走が本当の問題

さすが感覚の帝国である。今回は女性芸能人たちの太ももが話題だ。クルボクチ。ここ数日、言論紙上を熱くした問題の単語だ。クルボクチとは何かと? “蜜を塗ったような滑らかな太もも”、すなわち、魅力的な太ももを指すそうだ。AFTER SCHOOLのユイ、少女時代のティファニーなどがクルボクチの代表ランナーとしてひっきりなしに呼び出されている。

 
▲ 文化日報 9月26日付 11面

論争の発端はある高校生が“クルボクチ”がセクシャルハラスメントの単語だとして女性部に使用制限建議をしたことだ。これをめぐって諸説が乱舞している。女性部に建議した学生の意見のように不快だという反応があるかと思えば、たんなる身体的美しさを表現するための造語に度が過ぎた対応だという意見も出ている。 
 
周りの人たちに意見を求めた。「どこまでなめるつもりだ」と不快感を示したものがいるかと思えば、「たんに身体を差す表現が問題になるというなら、“梅桃のような唇”も使ってはいけないんじゃないか?」という擁護論、「単語自体は大きな問題ではないと思うが、商業的活用は反対する」という制限的活用論、「クルボクチには関心はないが、ユイやティファニーには関心がある」という実用論(?)などなど、実にさまざまな反応があった。いざ論争の中心にいるユイは「私を知ってもらうことができる単語になったようだ」「ありがたく思っている」という反応を見せた。 
 
クルボクチに対する定義もそれぞれ違った。問題はないという人々はたんに魅力を強調するための表現と考える一方、セクシャルハラスメント的な要素があるという人々は“蜜が塗ってあるかのように舐めたい太もも”という意味に読まれると語った。 
 
面白いのは男性と推定される一群のネチズンたちが並べた“告解聖事”だ。彼らはクルボクチの語源が直截的に性行為を連想させる露骨な性的ニュアンスを含んでいるため、プライベートな場ならともかく、公式的な紙面に現れるのは防がなければならないと主張している。おもにポータルサイトの知識問答を通じて流布されているこの意見によると、この言葉は性的興奮を誘発する単語に語源を持つ。しかも、蜜はなんと女性の体液を意味すると言うのだ。 
 
語用論的な側面から見るなら、語源は絶対的に重要なことではない。そして彼らが話す語源が必ずしも確実な根拠があるものだと見ることも難しい。これは言わば、酒席の猥談を公開の席上で話すことはできないという、男性たちの二重的な性認識と当惑感を露わにするだけだ。 
 
実際、太ももに何の、どれほどの罪があろうか。エンターテインメント産業という場自体が“頭からつま先までホットイシュー”になりたい芸能人たち、いや、そうするために総力戦を繰り広げる芸能事務所の欲望のとばく場となって久しいのではなかったか。数多くの女性アイドルグループが競争的に肌色マーケティングを展開していたのは暗黙的に容認しながら、いや露骨に持てはやしながら、今になって単語一つに真面目な顔で問題提起をする姿はなんだかしっくりこない。感覚の解放について、新しい世代の率直な自己表現について、みなそれぞれ口を出し称賛していなかったか。(その意味では、私は“10点満点で10点”という2PMの歌がクルボクチという言葉より、チェボムの韓国卑下発言よりずっと衝撃的だった。)これは単語一つに限った問題ではなく、女性の身体を切り売りするメカニズムについての問題提起の延長線上で思考されるべきことである。今回の論争がたんにクルボクチという単語一つを使うか使わないかの問題ではない理由だ。それは言わば、放通委が“2MB”を放送禁止語に指定することとまったく同じことになる可能性がある。本質についての省察をせずにすぐ目の前の不都合な現実だけ除去するのは、生活苦を訴える市場の商人が寒そうに見えるとマフラーをかけてあげつつ、お涙ショーを見せることと変わるところがない。 
 
むしろ注目したい点は、エンターテインメント産業の談論たちが生産/流通される方式だ。関心とイシューを製造しリパッケージして売り飛ばし、これに熱狂して再び新たなイシューを作り出す、この無限回帰のメカニズム。このシステムを支えるのは芸能企画社ーマスコミー大衆(ネチズン)とつながる奇妙な三角連帯だ。わざと扇情性論争をあおったり、愛国主義マーケティングを展開して、互いに取っ組み合いのケンカをするように見えながらも、そんなことがあったのかというように、にっこり笑って"ハッピートゥゲザー"を演出するこの同盟関係こそ、実は倒錯的な一隅があるのではないだろうか。なんとかして刺激的な言葉とイメージで大衆の目をつかもうとする資本の欲求と、これに便乗して自分たちの欲望を投影する大衆。このねじれた関係からしてすでに今日の論争は用意されていたのだ。 
 
クルボクチという語彙が喚起させる感覚は強烈だ。この新兵器はこの9月の間、競争的に訴求された。おそらく芸能事務所の報道資料ーマスコミの記事作成ーネチズンたちの拡大再生産とつながるメカニズムが忠実に作動したのだ。この三角同盟が芸能人たちの体と人気を人質に行う欲望の疾走ゲーム。このゲームに自浄作用を持たせるための努力が平行されない限り、クルボクチについての論争がいくら激しく起ころうと、実のところ第2、第3のクルボクチが出現することを防ぐことはできないだろう。何か見慣れた風景ではないか? そう、クルボクチという言葉はとても新しく見えるが、日の下にさらせば新しいものなど何もない。実は私たちがいつも経験していたことで、相変わらず繰り返されていることである。 
 
アン・テホ/客員記者

credits & source : Mediaus (webpage capture by Wayback Machine)
translation : jiji3104

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